外務省外交史料館特別展示「日本とペルー」外交関係樹立150周年
令和5(2023)年は、日本とペルーの外交関係樹立150周年にあたります。
この展示では、150年前に調印された条約書を中心に、外交関係の樹立、日本人移民の送出、日系人社会の発展など、両国関係の歩みを外務省が所蔵する史料を通してご紹介されております。
1.陸奥神奈川県令より副島外務卿あて公信 1872年7月11日(明治5年6月6日)
1872年7月9日(1日暦6月4日)、ペルー国籍の帆船マリア・ルス号が船体修理のため横浜港に入港した。この船から虐待に耐えかねた中国人労働者が脱走し、英国軍艦に助けを求める事件が発生した。日本と条約関係のないペルーに領事裁判権はないため、日本側の裁判によって労働者解放を命じた判決が下ったが、ペルーはこれを不服として国際仲裁裁判へと発展した。この経緯はよく知られているが、その一方で、外交関係のないペルーとの間で係争が起きたことが、日本とペルーが国交を結ぶ契機ともなった。この文書は、神奈川県庁がマリア・ルス号の長から聞き取った内容を外務省へ伝えたもの。旅客として中国人281名の存在が記載されている。
2.パルド大統領より明治天皇あて親書 1872年11月16日(明治5年10月16日)
ペルー政府は、日本との間に国交を結ぶことを希望し、特命全権公使としてガルシア(Aurelio Ga. y Garcia)を日本に派遣して、東京で条約締結交渉を行った。その結果、1878年8月21日、日本・ペルー間に和親賀易航海仮条約が調印された。この親書はガルシアが携行した全権委任状で、パルド大統領(Manuel Pardo)の署名がある。73年2月に日本に到着したガルシアは、3月3日に参内し、明治天皇にこの親書を奉呈した。日本政府はガルシアを延遼館(現在の浜離宮に当時存在した迎賓館)に滞在させるなど、丁重に接遇した。
3.日本国秘魯国和親貿易航海仮条約(批准書) 1874(明治7)年10月13日批准
和観賞易航海仮条約の#推書交換は、1875年5月17日に東京で実施。展示史料はペルー側の批書で、パルド大統領(Manuel Pardo) の署名とアグエロ外相(Jose de la Riva-Aguero)の副署がある。
4.日秘通商航海条約(調印書) 1895(明治28)年3月20 日調印
各国との条約改正が進展する中で、ペルーとも和親貿易航海仮条約の約東に従い、領事裁判権を撤廃した新条約として、この通商航海条約を締結した。交渉はアメリカのワシントンで行われ、条文は英語で作成された。駐米公使の栗野慎一郎とペルーの駐米代理公使イリゴエン(Jose M.
Yrigoyen) が調印した。翌96年12月24日に批書交換。なお、この条約は1924(大正13) 年9月30日、両国間に新たに修好通商航海条約が結ばれるまで存続した。
5.西外相より室田公使あて公信 1898(明治31)年2月21日
国交樹立当初、日本の公使はペルーに派遣されず、1897年5月になって、駐メキシコ公使の室田義文が駐ペルー公使を兼任することとなった。
室田公使は翌98 年ペルーへ出張し、7月27日に信任状を大統領へ奉呈するが、西徳二郎外相は森岡商会がペルーへの労働者送出を計画していることを踏まえ、この公信を室田へ送り、移民が現地に適合できるか、森岡商会の計画に対するペルー側の待遇はどうかを、出張した折に調査して報告するよう命じた。室田はペルー外務省と協議し、その結果、ペルー側は森岡商会が扱う日本人労働者がペルー農業に有益であることを認め、渡航を許可する旨の大統領令が発せられた(1898年9月19日)。
6.第1回ペルー向け労働者の契約書(ひな形) 1899(明治 32) 年1月
ペルーへの出稼ぎ労働を希望する者と森岡商会が交わした契約書のひな形。契約期間は4年だった。この契約を森岡商会と結んだ日本人790名は、1899年4月3日、日本郵船の汽舲「佐倉丸」でペルーのカヤオ港へ到着した。彼らは各地に分散してサトウキビ栽培に従事したが、厳しい労働環境や風土病によって、初年度に100名を超える死亡者を出し、契約を切り上げて帰国する者もあった。それでも1903年には第2回の労働者送出が行われ、以後 1923年までに18,000名を超える契約移民がペルーに渡った。彼らの中には農園を離れ、都市部に仕事を求めて定住する者も現れ、次第に日本人社会を形成するようになった。
第1回契約労働者がカヤオに到着した4月3日は、90年後の1989年、ペルー政府によって「日本・ペルー友好の日」に定められ、以後、記念行
事が毎年行われている。
7.ペルー中央日本人会会長より内田外相あて請願書 1920(大正9) 年10月31日
ペルーに居住する日本人が増加すると、1917年にはペルー中央日本人会が設立された。中央日本人会は、日本人社会の拡大を受けて、ペルーへの日本公使館設置と専任の駐ペルー公使派遣を求め、在留邦人746名の署名を集めて外務省へこの請願書を提出。日本政府は 1921年10月24日、清水精三郎を初の専任公使に任命した。清水は12月22日にリマへ到着、公使館の工事を督促し、22年1月4日にホテルから公使館へと移った。
8.清水公使より内田外相あて電報 1922(大正11) 年1月16日
この電報は 1922年1月14日、清水公使がレギーア大統領(Augusto B. Leguía)へ信任状を奉呈した際の様子を報告したもの。大統領は「日本公使館の新設は両国国交親善に一大刺激を与えるものだ」と述べて、これを歓迎した。
9.レギーア大統領より皇太子あて親書 1922(大正11)年2月3日
清水公使が奉呈した信任状に対するレギーア大統領の返書。当時摂政であった皇太子(のちの昭和天皇)に宛てて送られたもので、「有能な清水公使をペルーに駐在する最初の日本公使として友情と尊敬をもって迎えることは喜びに堪えない」と述べている。
10.村上公使より広田外相あて公信 1934(昭和9)年2月10日
日本人社会の拡大は、次第に現地社会との摩擦を生むようになった。展示史料は村上義温公使からの報告で、リマの新聞紙上で、日本人のめざましい進出に警戒感を示す記事が盛んに掲載されている旨を伝えている。記事の中には日本人の勤動性を認めるものもあったが、「日本人は同化せず頭の中には日本のみがある」「稼ぎを本国に送金し軍国主義の実現に協力している」「日本は満州を掌握し経済的な黄禍が迫っている」といった論調が見られた。この年の10月5日には、ペルー政府は日本に対し修好通商航海条約の廃棄を通告し、条約は1年後に失効した。それ以降、世界が戦争の時代へと突き進んでいく中で、排日暴動事件が発生するなど、両国関係は難しい局面を迎えることとなった。
11.小沢臨時代理公使より岡崎外相あて電報 1952(昭和27)年6月11日
1941年12月、日米が開戦すると、ペルーは日本に対し国交断絶を通告し、両国の外交関係は途絶えた。そして 1952年4月、サンフランシスコ
平和条約の発効に伴って、日本とペルーの外交関係は再開された。この電報は、リマに赴任した小沢武夫臨時代理公使から東京の岡崎勝男外相に対し、ペルー外務省への着任挨拶が完了したことを報告したもの。ペルー側は外交関係再開と小沢臨時代理公使の派遣を歓迎する旨を表明した。
12.三浦大使より藤山外相あて公信 1958(昭和33)年7月24日
三笠宮同妃殿下は、1958年6月25日から7月5日までの11日間、ペルーを訪問された。三笠宮殿下はペルー滞在中、プラード大統領(Manuel Carlos Prado y Ugarteche)ら政府要人とリマにおいて面談されたほか、リマ周辺、クスコ、マチュピチュにおいて遺跡を見学。各地で熱烈な歓迎を受けた。この史料は、三笠宮ご訪問の成果や在留邦人に与えた影響をまとめた、三浦和一駐ペルー大使の報告書。三浦大使は、第二次世界大戦後、ペルー人社会に対し遠慮がちであった日系人が、ご訪問を通じて気持ちを鼓舞し、祖国の再建に安堵し、ペルーに安住の覚悟を固め、今後の経済発展の志を立てるに至ったとの観察を述べている。
13.岸総理とプラード大統領の会談要旨 1959(昭和34)年8月2日
扉信介総理は、1959年8月1日から8月4日までの4日間、ペルーを間、8月2日にプラード大統領と会談した。この史料はそのときの会談要旨。常総理はペルーには多数の日本人が居住し、ペルー政府や国民の厚遇を得て幸福な生活を営んでいることに謝意を表明し、今回の訪問を機にペルーとの通商・経済協力を促進し、両国関係を益々緊密化したいと述べ、プラード大統領も同感の意を表明した。また岸総理は、プラード大統領の訪日を希望する旨を伝えた。
14.プラード大統領訪日アルバム 1961(昭和36)年5月
1961年5月10日から16日までの7日間、プラード大統領が訪日した。
大統領は宮中晩餐会や池田勇人総理との会談、京都・奈良・大阪の視察など、日程を積極的にこなした。5月15日には池田総理との共同コミュニケを発表。両首脳は、貿易関係の一層の改善に同意し、両者の臨席の下で通商協定の調印が行われたことに満足の意を示し、両国経済に共通の利益となる経済協力が増進されることを希望すると表明した。
15.通商に関する日本国とペルー共和国との間の協定(署名本書) 1961 (昭和36)年5月15日調印
戦後外交関係の再開後も、両国間には基本的な通商関係を規定する協定がなく、占領期に連合国軍最高司令官(SCAP) とペルー政府との間で結ばれた貿易取極を単純延長して経済貿易関係を律していた。そこでプラード大統領の訪日を機に1961年3月から交渉が行われ、5月15日、プラード大統領と池田勇人総理の臨席の下、この通商協定が小坂善太郎外相とヒルベック特派特命全権大使(Federico Hilbck Seminario)との間で署名された。日本語とスペイン語で作成。全9条で、関税・為替管理・輸出入規則・出入国・旅行および滞在・事業活動等に対する最恵国待遇を約した。同年12月18日、リマにおいて批准書交換。
16.日秘文化会館建設趣意書 1965(昭和40) 年1月18日
日秘文化会館の必要性を述べた建設趣意書。ペルー中央日本人会は各方面からの建設資金調達に奔走したが、その説明資料の一つ。当時、の日本人社会は日系人を含めて 50,000 人に上る規模に成長していた。そこで日秘文化会館を建設し、日本人コミュニティー交流の場として、また日本文化や貿易商品の展示場、日系二世や三世が日本事情を学ぶ教場として、多目的に活用することが謳われている。日秘文化会館は在留邦人の寄付や日本政府・日本企業の資金援助を得て、1965年8月18日に定式を挙行し、67年5月12日に開館した。
17.日秘文化会館開館式における皇太子お言葉 1967(昭和42)年5月12日
皇太子同妃両殿下(現在の上皇上皇后両陛下)は、1967年5月11日から15日までの5日間、国費としてペルーを訪問された。5月12日には日秘文化会館の開館式に臨まれ、お言葉を述べられた。開館式にはベラウンデ大統領(Fernando Belaúnde)も出席し祝群を述べた。この史料は、山津善衛駐ペルー大使の報告書に添付されたもの。
18.日本万国博覧会記念アルバム 1970(昭和45)年
1970年の大阪万博には7か国が参加した。ペルーも参加し、パビリオンを設置。ペルー館のテーマは「国民の進歩と発展のための平和革命」。ペルーの文化遺産と、産業、社会の発展ぶりを紹介。会期中の8月下旬にはソラーリ(Jorge Fernandez Maldonado Solari)エネルギー鉱山大臣が日本を公式訪問し、ペルーのナショナルデーの8月28日に万博を訪れた。
19.日秘修交 100 周年記念銀貨 1974 (昭和49) 年5月発行
ペルー中央準備銀行が、日本との国交樹立100周年を記念して発行した100ソル銀貨。直径37ミリ、重量22 グラム。鋳造枚数は375,000枚。ペルーでの発売分は3日で完売したという。
20.フジモリ次期大統領より海部総理あてメッセージ 1990(平成2)年7月6日
1990年6月、アルベルト・フジモリ(Alberto Kenya Fujimori Inomoto)がペルー大統領に当選した。フジモリは熊本県出身の日本人移住者の2世で、ペルー生まれの日系人として初の大統領となった。大統領就任前に訪日、7月2日、海部俊樹総理と会談した。この史料は、日本を去るに当たってフジモリが海部総理に送ったもの。フジモリはこのメッセージで、7月9日から開催されるヒューストン・サミットで「国際金融社会へのペルー「国際金融社会一の復帰に向けて自分の次期政権が手続きを踏んでいく決意を説明してほしい」と、海部絵理に要請。フジモリは7月 28日、大統領に就任。10年余りの在任期間中には、1996年12月、日本大使公邸占拠事件が発生。
21. 投資の促進、保護及び自由化に関する日本国とペルー共和国との間の協定(署名本書・付属書)2008(平成20) 年11月21日署名
この協定は、投資の促進、保護、自由化に関して包括的で詳細な事項を規定。投資環境の整備を促すとともに、投資家に安心感を与え、両国間の投資・経済関係のさらなる緊密化に資する目的で締結された。リマにおける両国首脳会談の際に、麻生太郎総理とガルシア大統領(Alan Gabriel Ludwig Garcia Perez)が署名。日本語、スペイン語、英語で作成。双方の留保に関する付属書が署名本書と一つになっているため、ボリュームのある形状となっている。翌2009年11月のガルシア大統領訪目の際に公文交換を行い、同年12月10日に効力発生。ペルーは鉱物資源が豊富で、多くの非鉄金属の鉱種で世界の5指に入る主要生産国・埋蔵国であり、わが国にとっても重要な輸入国である。この協定によって、わが国投資家の一層の進出が見込まれ、わが国の資源確保の観点から、同国における投資環境の安定性を確保する重要性は大きい。2011年5月31日には経済連携協定も結ばれ、両国経済関係の一層の強化、さらには両国関係全体の緊密化が期待される。